アイ.アム.ア.ヒーロー2016年05月16日

ゾンビ映画は好きだ。洋画邦画を問わず、身近で公開される作品ならば、たいていは見に行くことにしている。
ゲームでも「バイオハザード」とか大好きなのだ。
ゾンビ(劇中ではゾキュン)とは、人間を食う屍体とでも言えばいいのか、死んでいるのだが食欲だけは残っていて、その対象が生きた人間なのだ。悪いことにウィルスが媒体となって、すこしでも噛まれてしまった健康な人までもが、ゾンビ(ゾキュン)と化してしまう。
これが基本ルール。
身近な人たちが次から次へと噛まれてゾンビ(ゾキュン)となり、主人公たちを追いかけてくる。
この映画はスプラッターである。ゾンビから逃げる。それだけの話である。ゾンビは果てしなく襲ってくる。あらゆる手段を使って撃退するのだ。血飛沫と肉が飛び散り、内臓がぶち撒けられる。
映画の後半では、とあるショッピングモールの中で一定の自治を営んでいる人間と、ゾンビとの戦いが画かれている。この部分は1978年のジョージ.A.ロメロ監督の「ゾンビ」へのオマージュではなかろうか。
最後までゾキュンだか人間だかわからない有村架純だけは、謎のままである。

世界から猫が消えたなら2016年05月16日

主人公の親友はビデオ屋で、元恋人は映画館で、働いていて、両人ともかなりの映画マニアである。
とくに元恋人は間違い電話のときに電話口から聞こえてきたテレビの音で、主人公が見ている番組が映画の「メトロポリス」であることを特定し、都市が水没する場面なのを言い当てる。
今時の大学生が1920年代のサイレント映画の音を憶えているなんて、ものすごいことである。
私など足元にも及ばない映画好きであることが伝わって来るのだ。おそらく作者が半端ない映画好きで、その思いをこの作品の中に込めたのだろう。
「燃えよドラゴン」のセリフは有名でよく聞くように思うが、親友がこれを見ろと差し出した「太陽を盗んだ男」のDVDには「おおっ」と思った。(昔、学園祭で見てハマったので)
猫に先立って世界から消えるものが三つある。電話、映画、時計である。
電話と時計がなくなってしまったら、世界は大混乱に陥ってしまうはずだが、その部分はまったく画かれていないのだ。あくまでも主人公と周りの人たちとの関係がどう変化するのか、興味はそこだけなのだ。
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