釣り2019年04月02日

天気予報によると午前7時の天候は晴れ、気温は2度。その後上昇し午後3時の時点で9度、同時に雨が降る。
日本各地で桜が開花し、季節は春ではあるが、山間部では体感温度が低いことが予想される。
セーター二枚重ねの上にジャージを着込んでその上からダウンジャケットを重ねた。昨年の十月以来、約半年ぶりの釣りである。5時半起きで6時の出発、スタンドでガソリン2000円給油して、カーステでSKE48のCD聴きながら高速道路に乗り込んだ。
湖に到着し、レンタルボートに船外機を装着し、道具を積み込んで、出発する頃には9時近くになっていた。
雲は少なく青空が広がっていて、本当に雨が降るのだろうか、という天候で、雨具の準備は必要なかっただろうかと思った。ただ、風が強く、湖面が波立っており、風の当たらない場所に移動しないとボートが流されるような状況だった。寒い。気温は正午近くなったところで8度ほどだった。そしてだんだんと雲が増えてきて日差しが遮られるようになり、体感温度がますます低くなっていった。雨が降る前にと思って、ワンドの奥に入ってクーラーボックスの中からセブンイレブンで買ってきたざる蕎麦を取り出した。包装のビニールを破って添付された水を麺にかけてほぐし、樹脂製の小鉢の中に汁を入れ青ネギを入れて海苔を浮かし、縁に特製ワサビを塗りつけた。割り箸をパチーンと割って、麺を出汁に浸して食べた。気温が暖かければもっと旨かっただろう。
天気予報は当たり、午後2時すぎには小雨模様になり、3時の時点で雨具が必要になりそうな状況になってしまった。風もあり寒かったので、今日はここまで。桟橋に戻って道具を片付け、休憩所のベンチに座って自動販売機で買ってきた熱いペットボトルのお茶を飲んだ。桜がほぼ満開だった。

四人組がいた。2019年04月07日

高村薫の本は好きなのだが「太陽を曳く馬」以降の作品は読んでいなかった。「晴子情歌」の頃から難解な旧仮名遣いの表現が出てきて、それでも母子の話のうちは良かった。「新リア王」では仏教の専門用語が何の説明もなく普通に飛び交い、「太陽を曳く馬」に至ってはオウムの教義に関する考察にまで頭を使わねばならぬようになる。
宗教に関する予備知識がなければ読み解くことが難しく、寺の和尚ならばわかるのだろうが、信心からは程遠いところに存在する一般市民の私などには、物語の中に入り込むのに敷居が高くなってしまった。仕事を辞めて暇な時間ができたら専門書を紐解いて学習してからあたらめて読み直してみたい。
「四人組がいた。」は私の中では十年ぶりの高村薫の作品である。
舞台は山奥の寒村。村の郵便局兼集会所に集うジジババ四人の話で、平たく言えば現代における老人達のお伽話である。現代社会の風刺が毒々しく語られているが、毒薬の作用が限定的なテレビの松本人志みたいに本人は面白いつもりでも見る人によってはちっとも笑えない。そんな小説だと思いました。
TNB(田んぼ)48の「ベビーローテーション」とか、かなりベタベタなギャグがあり、これは本当に、かつて旧仮名遣いと仏教で私の脳みそを悩ませたあの高村薫の文章か、と。
お伽話の短編集。また読みたいと思ったので、今度は離島の漁村とかを舞台にして描いてください、高村先生。

バンブルビー2019年04月07日

「トランスフォーマー」シリーズはものすごい特撮技術だと感心するのは間違いがないのだが、イマイチな印象である。自動車から人型に変化するのが宇宙人だという設定が私の好みに合わないのだろうか。
あれがジャンボーグナインみたいに人が操縦するロボットだったら、もっと気分が盛り上がったように思う。過去のテレビ番組において、ロケットが変身してヒーローになるというとマグマ大使が連想されますね。ジャンボーグナインやマグマ大使がダイアル式の黒電話なら、トランスフォーマーは最新型のiPhoneですな。
バンブルビーは少年(この場合は少女)とロボット(この場合は宇宙人)の交流が描かれていて、感情移入しやすく、これまでのトランスフォーマーに比べてもより親しみやすく楽しめる内容だったと思いました。
映画館のエスカレーター脇に実物大のバンブルビーがいて、しかも目が青く光っており、なかなかよかったので、写真を撮りましたよ。

麻雀放浪記20202019年04月15日

麻雀に限らず賭博をやったことのある多くの人は阿佐田哲也の小説を読んだ経験があると思います。
特に麻雀放浪記の「青春編」は聖書と呼んでもいいのではないでしょうか。私も雀荘に入り浸っていた学生時代、夢中になり、一日で分厚い文庫本を読み切った思い出があります。
映画の方も原作に忠実な内容で(昭和五十九年の作品)モノクロ作品であり、冒頭に流れる岡晴夫の「東京の花売り娘」と焼け野原の場面で一気に昭和二十年まで時間を遡ってみせる。高品格が演じる出目徳は日本映画史上最高の適役と思えるほどにはまっていて、わたしゃ当時、青二才の学生で身の程知らずも甚だしいが、胸に腕組んで鼻息も荒く首を縦に振りながら唸ってしまうような名演であった。
アレを超えるのは無理だろうと思っていたら、ぜんぜん違うアプローチで、坊や哲が終戦直後から2020年までタイムスリップしてくるという荒唐無稽な内容だった。しかも戦争があって五輪が中止になったという近未来の話である。坊や哲は昭和二十年の時点で二十才である。故に大正十五年か昭和元年の生まれであり、そのような男が2020年(令和二年)の東京に馴染む道理がなく「帰りてぇ」と思うのは自然な感情なのだ。
ドサ健と出目徳は、今作でも登場しますが、もちろん昭和の前作と比べてしまう自分がいて、それは仕方がないことでしょう。

ザ.バニシング 消失2019年04月24日

宣伝ではサイコサスペンス史上No. 1の傑作という触れ込みだ。製作は1988年(昭和六十三年)なので、携帯電話がない時代である。レクター博士やリスベット.サランデルのような極端な人物は登場しない。
冒頭は車で南仏の郊外を旅するオランダ人カップルの姿が描かれる。仲が良く幸せそうに見える二人である。途中、立ち寄ったドライブインで女が忽然と姿を消す。いつまでも帰ってこない女に不安を抱いた男は車のフロントガラスに「車で待っていて」とメモ書きを貼り付けてドライブインの中を探しまわる。彼女を見たという従業員はいるものの、どこにいったのかは誰にもわからない。空しい時間が過ぎて夜になり「警察を呼んでくれ」と支配人に訴えるのだが「警察は動いてくれません。朝まで待ちましょう」と言われてしまう。
ここで画面は犯人側の視点に切り替わる。時間軸が遡って、犯人が犯行の準備段階において試行錯誤している様子が展開されて行く。妻と二人の娘を持つ普通の男である。清潔な服装をしているし、たとえ街中を一人で歩いていても全く目立たない容姿で、完全に日常の中に埋もれて犯罪の匂いなどまるでない。山荘を買い、そこで一人、人体に睡眠薬が作用する時間をストップウォッチで計っている。被害者を車の中に誘い込むリハーサルを繰り返す。
予行演習を経て、実際に街中に繰り出し、何度も女性の誘拐を試みる。そして失敗を繰り返す。やがて問題のドライブインに行き着いて、冒頭のオランダ人カップルに遭遇するのだ。

映画は三年後に舞台を移し、失踪した女を探し続ける男と、彼に手紙を送り続ける犯人との心理戦争が始まっていく。犯人も被害者も、どこにでもいる普通の人物である。
アクセスカウンター