飯田橋2024年02月07日

中央線、お茶の水で中野行き各駅停車に乗り換えて飯田橋で降りた。昔、ここに職場があった。前回来た時もそうだったが、以前と駅舎が変わっていて、電車を降りた時ホームを逆の方向に歩いてしまった。

改札口から牛込橋に出て富士見二丁目の方角に向かった。駅前交番の横に私らが「校長先生」と呼んでいたおじいさんの家があり、その隣がホカ弁の店だったような記憶があるのだが、今では跡形もなく、駅の敷地の一部になっているようだ。東京警察病院もなくなっている。

きっかけは厄除祈願の参拝だったが、東京大神宮は定番のコースになってしまった。伊勢神宮の分霊だけではなく、縁結びにゆかりの深い神社としても有名らしく、そのせいか女性の参拝者が多い。

ちょうど昼時で腹が減った。店を探そう(本当は決まっている)飯田橋グラン.ブルームという天まで届きそうな高層ビルがありまして(昔はなかったが)その裏側にラーメン屋が3軒並んでいるところがあり(ここは昔からあります)その中の青葉という店が目的地です(去年も行った)お品書きは中華そばとつけ麺の二種類しかない。前回は中華そばだったので、今日はつけ麺にしました。本店は中野にあり、千葉にも支店がある。千葉の支店には行ったことがありますが、飯田橋の方が旨いような気がする。調子にのって麺大盛りを食べてしまったが、腹がパンパンである。

今日の目的地はもう一箇所ある。早稲田通りに戻ってゆるい坂道をゆっくりと九段に向かって歩いた。


幕張2024年02月06日

西船で諸用を済ませた後、いつもの大衆酒場で煮込みと牡蠣酢とらっきょうをアテにラガービールを飲んだ。徒歩でJR西船橋駅に移動する。狭い構内に人が溢れて歩きにくい。関東に来たことを実感する。

電車に乗って海浜幕張で降りる。駅の北側にあるイオンまで歩いて飲み物と乾き物を購入した。今度は駅の反対側、東京湾の方に向かって歩いた。今日の宿泊先はこの前の三重のホテルとは違って現代的な建物である。客も従業員も多い。フロントでチェックインをした。先に会計を済ませるシステムになっていてタッチパネルを操作して支払いを終えると小さな隙間からカードキーが出てくる。素泊まりなので飯はない。ロビーで読売新聞朝刊をもらってエレベーターに乗り、十二階の部屋に入った。私一人だが部屋はツインの洋室で、ベッドが二つ並び、窓際が小さなテーブルになっていて、置き鏡や冷蔵庫、電気ケトルなどがある。こないだの和室の半分もない広さで、縁側も床の間も座卓も畳もなく、液晶テレビは壁掛けである。狭い。しかし寝るだけだから問題はないのだ。タオルを持って下の大浴場に行った。スーパー銭湯みたいなところで、こちらはむちゃ広くて設備にも錆がない。私は木製の露天風呂に入り、ぬるめのお湯にゆっくりと浸って暖まりました。

部屋に戻り、ベッドの上で新聞を読んだ。

記事

関東地方に大雪警報 低気圧が本州南岸を東に進んだ影響で、関東甲信は5日、大雪に見舞われた。

ブタ腎臓 胎児に移植 透析までの代替え計画

能登地震 まち再生 時間との闘い

寝た。


朝、海の向こうに富士山が見えた。


倉田山2024年01月10日

倭姫宮の鳥居をくぐり、あらためて坂道を上る。本当は坂道の入り口から左側の鳥居をくぐって森の中に入り、倭姫宮を参拝した後、反対側から森を抜けて徴古館の前に出る、というのが理想的な順路だと思う。


神宮徴古館

明治時代に建築されたというルネッサンス様式(受け売り)の建物が見えてきた。受付で三館通し(徴古館、農業館、美術館)の切符を買い、別館から入った。フロアの入り口付近にあったビデオに見入ってしまった。倭姫命の旅を紹介する内容である。古墳時代、天照大神の鎮座する理想の場所を探して諸国を巡った。先ほど参拝した倭姫宮に祀られているお方である。別館は期間限定の展示物がある場所らしい。部屋は二つあるだけだった。入口に戻って、本館に向かった。一番よかったのは中央ホールにあった正殿の模型だった。内宮外宮とも正殿は外側から見るだけで中に入ることができないから全様がわからないのだが、ここで具体的にイメージすることができた。戦国三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の印状が展示されていたが、あれは本人の書なのだろうか?歴史には詳しくないのでよくわからないが、少なくとも安土桃山時代の逸品であることには間違いがないと思われる。

神宮農業館

徴古館と同じ人物が設計した木造の建物で平等院をイメージしたらしい(受け売り)。神宮で使われる神饌に関連した展示品、米の他に塩、鮑、鯛などの調整所に関する資料。神饌の中でも鮑の格は鯛よりも上らしい。神塩は今でも二見町の塩田で海水から作られているそうな。セミクジラの骨が展示されていた。何時代かは失念したが捕獲された個体は三十メートルあったという。(本当ならばシロナガスクジラの最大級に匹敵する大きさなのではなかろうか)下顎の骨は床から天井まで届くものだった。触れていいらしいので、触ったが大理石の様に硬く、表面はツルツルだった。生糸や繭などの他、蜘蛛巣城で老婆が回していたやつ(座繰り器というらしい)もあり、古くからの農業(漁業製糸業)の歴史を垣間見ることができました。

神宮美術館

和風の建物。四つの主屋が回廊で囲まれていて、廊下から中庭を臨むことができる。外側も広い日本庭園になっていて、館内の広い窓からは四季折々の草木を眺められる(受け売り)。この日は庭師の方々が落ち葉の掃除をやっておられるのが見えた。腰に吊るした火炎放射器のような形をした器機から空気を放射して庭の落ち葉を吹き飛ばし、一箇所に集めてゴミ袋の中に詰め込むという作業のようだった。

(フロアマップより)入り口から入ってエトランスを通り、回廊を時計回りに広間から展示廊、展示室一、休憩室、展示室二、と歩いて、エトランスに戻ってくる、というのが一般的な順路だろう。何も考えていない私は反時計回りに歩いてしまった。日本画、洋画、版画、書、彫刻、工芸品、など。文化勲章受賞者、文化功労者、日本芸術院会員、人間国宝、の作品が展示されています。肩書に権威があるのでそれなりの作者なはずですな。芸術は好み(嗜好品)だと思います。素人なりに、いいと思ったものもありました。ひとつあげるなら、龍の日本画がよかった。今年は辰年だし。

午後二時過ぎ、美術館を出た。徴古館に入ってから二時間ちょっとが経過していた。坂道を下ってバス停に向かったが、時間のタイミングが合わず、また駅まで歩くことにした。宇治山田から特急電車に乗って大阪に帰ろう。日が暮れる頃には難波に着いていたい。


宇治山田2024年01月10日

午前八時、部屋の電話が鳴った。「朝食のご用意ができました。」受話器越しに声が聞こえてきた。頼んであった時間通りであります。下の階に降りて昨日の部屋に入った。同じ中居さんが「昨夜は冷えましたでしょ」と朝の食事の案内をしてくれた。英虞湾で採れたという海藻が入った味噌汁と焼き魚、だし巻き卵、漬物、野菜、などだった。またおかわりをしてしまった。
午前十時、チェックアウト。精算をしてくれたのも中居さんだった。古く、うす暗いホテルだった。今日も晴天です。賢島の駅まで歩き、販売所で切符を買った。午前十時半発名古屋行きの特急である。駅の二階に伊勢志摩サミットの展示場があった。無料だったので見て回った。定刻、指定席に座って出発、目的地は宇治山田。
倉田山に博物館と美術館がある。宇治山田でバスに乗り換えるつもりだったのだが、停留所に行ったら目の前で発車してしまった。時刻表を見ると次の便は三十五分後である。歩いたほうが早そうなので、土産物屋のおばちゃんに道順を聞いた。駅を出て左に曲がって最初の信号を左、それから道なりに真っ直ぐ行く。
だいたい二十分で着いた。ここには神宮徴古館、農業館、神宮美術館がある。最初に徴古館に入ろうと思っていたのだが、向かいの森の中に鳥居があるのが見えた。トンネルみたいだ。倭姫宮である。吸い込まれるみたいに入ってしまった。森の奥に小さな正殿があった。宿衛屋の横を通って手水舎で手を濯ぎ、参拝をいたしました。反対側に石段が見えたので、そちら側を歩いてみることにした。石段を降りた先には森を抜ける長い参道が伸びている。日のささない砂利道をずっと歩く。石が擦れる音がして運動靴の踵の穴から小石が入ってくる。途中で二人くらいとすれ違いました。私は通常の順路を反対方向に歩いたのだった。

英虞湾2024年01月09日

風呂から上がり、身体を拭いて服を着て、外に出た。隣にある女湯の照明は消えている。今日は女性の客はいないのだろう。薄暗い廊下を歩く、地下は大浴場と大広間(宴会場)になっている。団体客がいないので、大広間は真っ暗である。エレベーターの横に飲み物の自動販売機を見つけた。酒も売っている。ロビーにあったのはアサヒビールだったが、ここのはキリンだった。二階の客室に戻った。今日は寒い、暖房の設定温度をたかめにした。晩飯までにはもう少し時間がある。持ってきた文庫本(楊令伝)を読んだ。
午後六時、部屋の電話が鳴った。受話器を取ると、女性の声で「お食事の用意ができました。112の部屋までお越しください」と。部屋の鍵をかけ、一階に降りて呼ばれた部屋に入った。二階の部屋と同じ間取りである。電話をくれた中居さんが待っていた。本日、二人目の従業員さんである。チャッカマンで鍋料理の固形燃料に火を入れてくれた。お茶の用意もできている。あとはポットから急須に湯を注ぐだけである。
私が予約していたのはあわびお刺身付きのプランだった。
漬物、もずく酢、エビフライ、海鮮鍋、茶碗蒸し、煮魚、刺身(マグロ、ヒラメ、あわび)、汁物、ご飯、みかん、です。あわびの刺身にはモツの部分もついているそうだ。中居さんは火をつけたあと「ごゆっくり」と言い、あとはひとりにしてくれた。私は地下の自動販売機まで行ってキリンビールを買ってきて、ビールを飲みつつ、晩飯を食った。ホテル中で、晩飯を食っているのは私一人だけである。
静かすぎるから、テレビなんぞをつけた。午後六時発、夕方のニュースをやっていた。ここら辺は名古屋がキー局になっていて、私には新鮮だった。天気予報が、名古屋、一宮、豊田、豊橋、伊良湖とか、名古屋、岐阜、高山、津、とか。八代亜紀がなくなったらしい。船唄は高倉健の映画の中で強く印象に残っている。飯を食い、(一人で)おかわりもして、ビールを飲み、締めに茶を飲んで、食事を終えた。満腹である。
部屋に戻り、床の間の横にある開きから浴衣と帯を取り出して着替え、縁側の椅子に座り(楊令伝)の続きを読んだ。童貫を討ち、宗は滅んだ。反乱軍が敵を討つという目的を果たしてしまったら、その先はどうなるのか。おのれが逆らっていた国家が倒れれば、今度はおのれ自身で後の国家を背負って行かねばならなくなる。帝国が滅んで民主主義が復活した、万歳、みたいなことにはならないのだ。
夜がふけた。もう寝る時間である。電気を消して、窓のカーテンを開け、外の景色を見た。海は暗くて見えないが、星はよく見える。地上に灯りがなく、空には雲がなく、月も見えない。今夜は星が多い。
寝た。
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